壱・阪播電気鉄道の計画

 宝塚に初めて鉄道が通ったのは、1897年、阪鶴鉄道の開業時である。同鉄道は、もともと摂津地域の東部を走っていた「摂津鉄道」を吸収し、福知山方面への延伸を目論んでいた。まさに、今の福知山線(JR宝塚線)である。その後、1899年の1月には三田、3月には篠山、5月には柏原まで延伸し、着実に丹波地域まで路線を伸ばしていった。

 一方、播磨地域にも、鉄道は着々と整備されていった。播磨地域初の鉄道は、1888年開業の山陽鉄道である。山陽鉄道は、その名の通り、どんどんと西へ西へ延伸を重ね、1901年には馬関(現在の下関)まで到達している。これは、今の山陽本線にあたる。また、1894年には播但鉄道の姫路〜寺前間が開通し、翌年には生野まで開通した。これは、今の播但線だ。このように、兵庫県に於いては、1890年代から着々と鉄道の整備が進みつつあった。とりわけ、南部の播磨地域は先進的であった。

 しかしながら、播磨地域の中でも、鉄道の敷設が相次いだのは南部の方であり、西脇や社、東条などの所謂「北播地域」では、鉄道の整備がほとんど進んでいなかった。また、そもそも兵庫県内を東西に結ぶ路線が少なかった。兵庫を東西に貫く鉄道は、当時は山陽本線しかなく、バイパスの整備が求められていた。だが、その整備は需要が見込められなかったことから、結局計画がされることはなかった。

 時は流れ、第一次世界大戦後になる。同大戦の後、日本国内では公共事業の企画ブームが巻き起った。これの一分野として、鉄道の敷設が挙げられた。この頃計画されたのが、阪播電気鉄道である。これは、大阪の野田から、伊丹、宝塚、山口、淡河を経由し、三木までいたる鉄道である。これは、現在の播州本線、淡河線にあたる。だが、この頃の計画にはかなり無理のあるものが多かった。また、尼宝電鉄や宝丹鉄道など、伊丹・宝塚地区で競合するような計画が出されていた。そのため、この計画は破綻し、阪播電気鉄道は解散した。その後を継ぐような路線が、少しずつ開業していく。

 


弐・北播鉄道の開業

 

 播磨地域南部において鉄道が次々に開通していくなか、北播地域に鉄道を通そうという動きが生まれた。特にこの運動は三田・西脇・北条で盛んとなった。これら3地域の住民は、それぞれを相互に結ぶ鉄道を敷設することで、さらに地域が発展すると考えた。この鉄道は「北播鉄道」として、1903年4月、創立総会を開催した。北播鉄道が免許を出願した区間は、三田駅〜東条〜西脇市であった。この北播電気鉄道は、1905年2月に鉄道免許を取得し、早速建設を開始した。そうして、1908年2月15日、北播鉄道の三田〜中央西脇間が開業した。今の播州本線・西脇線の一部である。当時は福知山線(旧阪鶴鉄道)と直通運転を行い、大阪方面へ北播鉄道の車両が直通していた。

 この北播鉄道は、沿線人口がかなり少なく、利用が少ないことが予想された。そこで、当時の社長、深城仙一ふかぎせんいちは、沿線密着型の鉄道にすることにした。その例として、定期的な無料乗車券の配布が挙げられる。これは、とても極端ではあるが、鉄道自体の利用を促進し、利用客を獲得することに間接的に影響した。また、粗品の配布やパンフレット「上昇気流たる列車」の制作など、地元に溶け込めるように努力した。そのため、徐々に利用が増えていき、経営も安定するようになったそうだ。

  北播鉄道は、次いで北条〜福崎間の免許を出願し、1913年4月に無事取得した。その区間の建設も比較的スムーズに進み、1915年7月25日、北条〜福崎間が開業した。こうして、現在の播阪電気鉄道につながる路線が着々と開通していった。

 


参・北播都市開発の宅地開発

 北播鉄道の福崎延伸の3年前である1910年は、日本の鉄道業界に於いて革命が起った年でもあった。箕面有馬電気軌道の開業である。同鉄道は、都市同士を結ぶのではなく、都市と郊外を結んでいたが、郊外の開発を進めることで、利用客の獲得に成功したのだ。このスタイルは、同業他社も追従し、以降日本の鉄道ビジネスの基本形となっていく。

 深城仙一は、勿論この波に乗っかっていった。仙一は、限りなく広がる播磨の田園地帯を、住宅地に変えて、利用を促進させようと考えたのだ。そうして、1915年4月、子会社である北播都市開発を設立し、第一期事業として東条地区の開発をスタートさせた。この開発によって誕生したマチは「播磨緑地都市」と呼ばれた。この播磨緑地都市の特徴は、大きく2つある。まず、緑を多く残したことである。播磨地域の美しい自然を活かして開発し、それを売りにしていたのだ。そしてもう一つがあえて少し不便にさせた点である。播磨緑地都市内に、八百屋や精肉店などは設けたが、理髪店や着物屋、大きな食事屋などは設けなかった。こうすることで、鉄道の利用を促進しようとした。

 この第一期の開発は成功し、第二期の開発として、福崎地区の住宅地化が進められた。1920年からのことである。これによって出来た市街地を、「西播磨緑地都市」と呼ぶ。この西播磨緑地都市においても、前述のようなスタイルを採用し、鉄道利用を促進させた。こうして、第三期の開発もスタートした。第三期開発の地に選ばれたのは、まだ鉄道の通っていなかった淡河村であった。この開発を「淡河緑地都市」この第三期開発と第一期・第二期の開発で大きく異なる点は、もともと鉄道が存在するか否かである。第三期開発に於いては、未開の地に鉄道を通し、未開の地を宅地開発していくという手法が取られた。さらに、北播鉄道は、宝塚延伸を目論んでいた。宝塚まで伸ばせば、阪神急行電鉄線と接続し、一層アクセスが良くなるためであった。

 こうして、まずは1923年11月、三田〜宝塚間の免許を取得し、1925年9月、北播鉄道の三田〜宝塚間が開業。国鉄福知山線とは異なり、山口地区から一気に山を下るような区間となり、福知山線よりも速達性を意識したような格好となった。これにより、大阪へのアクセスが抜群となった。さらに、1925年9月、淡河緑地都市の街開きが行われ、同時に北播鉄道の三田〜淡河間が開業した。北播鉄道が自ら計画し、自ら開業させた初の支線であった。この区間は、阪播電鉄が計画していたが未成に終わった区間であり、結果として阪播電気鉄道の計画は実を結んだと言える。

 こうして、大阪へのアクセスの良さを売りに、着実に利用客を増やしていった北播鉄道であったが、流石に世界恐慌に勝ることはなかった。1930年から計画されていた第四期開発は勿論中断した。


肆・播磨の鉄道王になりけり

 北播鉄道が開業したころ、姫路から、社を経由して、丹波篠山まで至る鉄道の計画がたてられた。この鉄道計画に深く関わったのが、小場健一郎である。彼は、現在の篠山市で生産が盛んな「丹波立杭焼」の魅力に目をつけており、それの輸送を円滑に行おうとしたのだ。今の時代からすれば、社まで開業させ、そこから加古川線に乗り切ればよいのではと考えることが出来るが、当時、現在の加古川線は開業しておらず、山陽本線の駅まで接続する必要があった。そこで彼は、姫路から社を経由し、今田までを開業させようとしたのであった。

 この計画が動き出したのは、1911年頃であった。そうして、小場は、1911年2月、姫路〜社〜今田間の免許を取得、「播丹鉄道」を設立した。これは、後に加古川線の運営会社となったものとは異なる。この計画に目をつけたのが、北播鉄道であった。北播鉄道は、1911年ごろより交渉を重ね、3年後の1914年11月25日、北播鉄道と播丹鉄道は合併することが決まった。そうして、播丹鉄道は1915年1月1日に北播鉄道に吸収され、1915年2月、経由地を社から高岡に変更する旨を申請し、通った後、工事はスタートした。1917年に、姫路〜高岡間、社〜今田間が開業した。

 時を同じくして、姫路と山崎を、夢前経由で結ぶ鉄道路線の計画が立てられた。西播電鉄である。同鉄道は、1914年9月に免許を取得し、路線の工事に取り掛かったものの、資金難に陥り、1916年に工事は中断した。これを好機と捉えたのが北播鉄道であった。北播鉄道は、1917年2月1日、西播電鉄を吸収した。これに合わせて、北播鉄道は福崎〜夢前間の免許を1917年11月に申請、翌月に取得した。こうして、1920年4月、本線として福崎〜山崎(現・宍粟山崎)間、夢前線として夢前〜姫路間が開業した。また、北播鉄道はこの少し前である1915年3月より、蒸気動車での運行を行っていたが、勾配の多い当鉄道には不向きであったことから電化工事が進められ、1924年8月に完成した。こうして、北播鉄道は徐々に播磨地域における地位を高めていった。利用客数も姫路延伸で着々と増えていき、経営が安定していった。

 1925年末には、下久米〜西脇中央間の免許を取得し、翌年9月に当初から電化で開業した初の路線である西脇線が開通し、加古川沿いの旅客需要も着々と拾っていった。このとき、今田線の社〜間は廃止されている。特に、社・西脇に於いては、両地区の中心部を北播鉄道が走っており、加古川線の前身・播丹鉄道からの旅客を奪った。こうして、北播鉄道は「播磨の鉄道王」と呼ばれるようになった。


伍・尼宝電鉄の合併、播阪電気鉄道へ

 1922年10月、前田房之助を中心に、宝塚尼崎電気鉄道(尼宝電鉄)の計画が誕生した。同鉄道は、阪神出屋敷駅から、武庫川の東岸を走り、宝塚(小浜)まで至る路線を計画し、翌年7月には免許を取得した。これら一連の動きに大いに注目した会社が2つあった。阪神電気鉄道と北播鉄道であった。阪神電気鉄道は、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)が神戸まで延伸したことを受け、同社の聖地ともいえる宝塚への進出を目論んだ。一方、北播鉄道は、大阪へ進出し、都市間鉄道として脱皮することを目論んだ。これら2社の対立に尼宝電鉄は大きく揺れ動いた。

 北播鉄道は7月27日、阪神電気鉄道は7月31日に尼宝電鉄への出資を決め、主導権の奪い合いが勃発した。この争いは、北播鉄道の当時の社長・三河紀行の高圧的な態度に、阪神の社長・三崎省三が折れたことで決着がつき、尼宝電鉄は北播鉄道の子会社になることとなった。そうして、1924年2月6日、設立総会が実施され、前田房之助が社長、三河紀行が相談役に就任した。その半年後には、尼宝電鉄は北播鉄道へ吸収された。

 北播鉄道は、尼宝電鉄の有していた免許を引き継いだとともに、尼崎〜大阪湊町間の免許を取得した。なぜ梅田に進出しようしなかったかは謎に包まれているが、一説によれば、阪急、阪神との過度な競合を防ぐためであるという。この区間の免許は、1924年12月に取得した。こうして、大阪へ進出の基盤が整った。そして、そこからの動きは早かった。1926年1月には、宝塚〜阪神尼崎間、同年9月には阪神尼崎〜大阪湊町間が開業した。ついに、北播鉄道は大阪進出を果たしたのだった。このタイミングで、社名を現在の「播阪電気鉄道」に変更した。